ゲイ雑誌月刊Badiがくれたミライ(*´∀`*)
<ゲイ雑誌月刊Badiがくれたミライ>
21日に長く続いたゲイ雑誌
「Badi」の紙媒体としての
最終号が発売されました。
市川は本当に長く
月刊Badiにお世話に
なりました。
月刊Badiが出来たからこそ、
市川はゲイ漫画を描くようになり、
月刊Badiが続いたからこそ、
ゲイ漫画を描いて生きていく、
という人生の選択肢を
与えてもらいました。
月刊Badiが
どのように革新的で
エポックメイキングだったかと言うと、
それまでゲイコンテンツ=エロ
という考え方が主流だった中で
ゲイとして生きて行く、
ゲイライフを題材に描く漫画原稿を
受け入れてくれた、ということにも
あると思います。
時代は色々な流れがあり、
月刊Badi発刊当時、
徐々に若い世代が
(当時、の若い世代よ?w)
ベッドの中以外でも
ゲイとして生きていきたいと
望む声が多く出てきた頃
(こんな風に書くと
隔世の感がありますよねw)。
男が好きという気持ちを
押し隠し、押し殺して
生きていくのではなく、
もっと自由に呼吸をしたい
もっと普通に呼吸をしたい
自分は単なる自分なのに、
何故普通に呼吸をすることが
許されないの?
普通に呼吸をしても
いいじゃない?
そんな気持ち。
そんな中、新しいゲイ雑誌月刊Badiは
ベッドの中でも、ベッドの外でも
ゲイライフが続くという人生を、
肯定して取り扱うゲイメディアとして
大きく舵を取りながら船出してくれたのです。
<24ページ原稿、それはステキだ!>
少し話がそれます。
漫画原稿は
ページ数によって
描ける内容が変わります。
8ページは、掌編向きです。
エッセイ漫画や雰囲気で
流す感じ。
16ページになると、短編。
少し複雑な話が描けますが
あまり複雑な話には向きません。
24ページになるとひとつの物語が
ある程度描けるようになります。
感覚的ですが。
そして現実的な話として
ページ数が多ければ
多いほど、原稿料は増え、
漫画家としては、
「生活を営んでゆくこと」が
現実的に見えてきます。
(少し複雑になってしまうので
同人誌に関することなどは
ここでは脇に置いておくようにしますね。
当時の状況などもありますので)
■ ■ ■
さてさて。
ゲイ雑誌は漫画専門誌ではないので
漫画に割けるページ数には
限界があります。
その結果、当時、大体において
短編であれば8ページ原稿、
少し、いやいやかなり
頑張って16ページ。
それがその他大勢の
ゲイ漫画を描く人間に
与えられる限界でした。
前後編や連載なんて
夢のまた夢。
ところが!
こんな状況の中、
時代の巡り合わせや
月刊Badiを作り上げた
みなさんの理解や努力の
おかげで、
月刊Badiは
ゲイ雑誌に掲載される
漫画に、24ページ漫画の扉を
コンスタントに幅広く
開いてくれたのです。
それは、ゲイが漫画で「物語」を
描くことができるという場所が
作り出されたことでもあり、
ゲイ漫画を描くことが
職業として成立する可能性も
作り出してくれた、という
本当にすべてにおいて
素晴らしい、革新的なできごと
でした。
■ ■ ■
当時、今でも
笑ってしまうエピソードが
ありまして。
月刊Badiが発刊されて
しばらく、市川は
ときどき8ページ漫画を
描かせてもらう程度でした。
それは前述した
ゲイ雑誌の漫画に
割けるページ数の限界という
事情があるからでした。
当時担当だった方からも、
「現状ではゲイ漫画に16ページや
24ページを割くことは難しいんです。
8ページで頑張ってくださいね」
と言われまして。
素直に、
はーい(*´∀`*)ガンバルゾ
と。
…………ところが!
ある日気がつくと
他の漫画家さんたちの
16ページや24ページの
ゲイ漫画が普通にどんどん
掲載されてる!?
あれあれあれれれ????
当時は紙媒体のメディアが
まだまだ大量に売れる時代であり、
月刊Badiのページ数も
どんどん増えてゆきました。
この辺は本当にめまぐるしい展開。
その結果、ゲイ雑誌における
ゲイ漫画の、8ページの壁は
いつの間にか無くなって
しまっていたようなのです(笑)。
「あ、あの……他の方達が
24ページを描かれているので
自分も24ページ漫画
描きたいんです……が」
と、ある日、相談したところ、
「あれえ?市川さん、漫画は8ページって
主義の人なんだと思ってました!
何で16ページ漫画とか24ページ漫画を
描かないんだろーなーって
不思議に思ってたんですよー」
いや、違うから!!!(笑)
早く言ってよ!(笑)
<自分の話になっちゃってゴメンなさい>
24ページという
ページ枠を頂けた市川は
ありとあらゆる
変な漫画を
描かせて頂きました。
オチンチンパワーを
集める大黒様の漫画とか、
ゲイパレードを背景に、
何故か巨大ロボットが
戦闘する漫画とか、
ワケの分からない
呪術ものとか(笑)。
こんなワケわかんない
漫画を載せ続けてくれた
月刊Badiは
本当に太っ腹でした。
でもね。
こんなワケわかんない
漫画を描くことにも
意味があったのです。
自己弁護、ではなく。
市川は「自分たち」が
主人公になる「物語」が
描きたかったのね。
当事者ではない誰かが描く世界の、
架空の存在としての「自分たち」ではなく、
「自分たち」ではない、別の誰かが主役の漫画の
気の良い脇役としての「自分たち」ではなく、
「自分たち」が主語になる世界の、
「自分たち」が楽しむ時間のための漫画、を
描きたかったわけです。
この世の中は
同性愛者に対して
本当に過酷です。
ある日突然誰かが、
「あなたは非生産的存在だから、
この世界に存在して欲しくない。
あなたは無用な存在だ。
消えてくれ」
と言い出す、なんてことは
日常茶飯事。
とは言っても、
私自身は、はい、そうですか、と
言って舞台からは降りる気は
ありません。
何故なら私には私の人生があり、
その舞台の中では私は
無用な存在ではありえないからです。
だったら、私自身、
誰かの舞台の上で
踊らされる存在ではなく、
自分が主体である物語の、
自分が主体である舞台を
自分が楽しむために作り出したいと
思ったワケです。
実際のところ、
友達などの、少し上の
世代の人達には、
自分のこんな気持ちを
分かってもらうことは
ちょっと難しかったん
ですけどネ……(;´Д`)。
社会全体、漫画、というメディアに
対する認識、というものが
やはり今とは全然違って
いたので。
(そういう時代もあったのよ!)
でも
月刊Badiは
こうした漫画を
辛抱強く、掲載し続けて
くれました。
編集部に行くと、
編集者の人達(当時は市川と
同世代)が、わざわざ、
「この前の原稿良かったと思う!
頑張ってね!応援してるからね!」
と、言いに来てくれたり。
編集部からの帰り際に
こっそり、
「あの漫画、すごい好きでした!
また楽しみにしてますね!」
と言ってくれたり。
そんなことがあったからこそ、
どうしたら自分たちが主語となる、
漫画を描くことが出来るのだろうかと、
無謀なまでの試行錯誤を続けることが
出来ました。
そしてさらには、
漫画「ナツノカッパ」で
(カッパ男が人間の男の子と
恋をする漫画なの(笑))
読者アンケート1位を頂きました。
本当にこれはすべて
当時の月刊Badiを中心として、
様々な人達に頑張ってね!
と、言ってもらえたからこそです。
<そしてやっぱりゲイ雑誌月刊Badiがくれたミライ>
さてさて。
発刊当時の月刊Badiのコピー、
「僕らのハッピー・ゲイ・ライフ 」
市川はこのコピー
好きでした。
だって例え
現実は違ったとしても、
明るい可能性、明るい明日を
夢見ることは、悪いことだけ
じゃないでしょ?
自分がどんな明日を
迎えたいか、心に思い描けなければ、
そこに向かって何を頑張ればいいのか
考えることも出来ないじゃない?
ツライ現実を忘れろ、
というのではないけれど、
ツライ今日ばかり見ていたら、
すべてを投げ出して
しまいたくなるじゃない?
人が高く飛ぼうとするためには、
明るい明日を夢見る
必要があるんだもの。
って思ってました。
当時からね。
そして
月刊Badiのお陰で
今現在も
市川はゲイ漫画を
描き続けています。
ゲイとして
ゲイ漫画を描く、という
人生の選択肢を
市川にくれたのは
月刊Badiでした。
この先、あの日々と変わらず
市川はずっと
ゲイ漫画を描き続けるでしょう。
それは自分の決心だから。
こんな市川の
ミライを作ってくれたのは
月刊Badiでした。
本当にありがとうございます。
さようならは言いません。
ほんのちょっとのお別れ。
紙の雑誌としてのゲイ雑誌
月刊Badiとのお別れだもの。
またいつか会えたらいいねって言って
大きく大きく大きくいつまでもいつまでも
手を振り続けたいと思います。
追記:
ところが!
お間抜けなことに
市川は、最終号に
お仕事頂いていたにも
関わらず、そのとき、
酷く体調を崩してしまっていた上に
まだ編集部でも最終号の
情報公開が出来ず、
執筆を逃してしまうと言う
赤面の事態が……(笑)。
冬コミの準備で
12月はお仕事請けられませんよと
先方にお伝えしていた上での依頼
だったので、あれ?どうして???って
思ってたんですが(笑)。
多分先方も
「頼む!察してくれよ!」
と歯がゆい思いを
されたのではないかと
思います(笑)。
一生の不覚って
こういうことを
言うのよね?(笑)
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